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花


『熊は、襲った人を食うというじゃあないですか。お父さんは食べられなくてほんとうによかったと思っている…に』

SIさんの奥さんが、涙声でぽつりとこんなことを言った。

ツキノワグマが人を襲って、それを「食べる」という現場を見てないし話も聞かないので、ボクはなんとも答えようがなかった。
しかし、SIさんを一撃で倒したクマは、そのあと何もせずに現場から悠然と立ち去ったことは確かなのだ。
第一発見者となった役場の職員の話を聞いても、岩にもたれかかるようにして亡くなっていたとのことだったので、SIさんを襲ってもそのごの人間には興味を示さずに、姿をくらませたのであろう。

いろいろな状況証拠となる話を聞き集めながら、クマがどのような理由でSIさんを襲わなくてはならなかったのかと考えると、ボクには理解しがたく疑問だけがいまでも心のなかを浮沈している。

SIさんは、昔は猟師もやっていた人だ。
ツキノワグマも何頭か仕留めた経験がある。
だが、「神主」という職業なので、殺生はよくないといってかなり前に狩猟をやめたのだった。
そのような人だったから、フィールドでの勘は普通の人とはちがって鈍ってはいないハズである。
白沢山の現場でもツキノワグマの存在は常に脳裏のどこかにあったであろうが、それでも襲われてしまった。
そこのところの原因を、ボクはいちばん知りたいのである。

きのこ採りは、とにかく究極なアウトドアスポーツである。
これは、やったものでなければわからないが、実に楽しいのである。自分自身の気持ちをとにかく無にして、静かに地面を見ながらどこまでも進む。
そのSIさんを、ツキノワグマがどこかで虎視眈々と狙っていたのではないのだろうか。
現場は見通しのきく小尾根だ。
そこで何の前触れもなく不意をついて襲ったということは、クマのほうが完全にSIさんの「気」を見抜いていたからにちがいない。

このような心の隙は、人間ならば誰にでもある。
ボクだって、これだけフィールドに身を置いて仕事をこなしているのだから、自然界の動きには敏感なほうだと自負している。
しかし、ときには「油断している」なぁーっと、感じることもよくある。

たとえば、林道を走っていて興味のある現場にさしかかれば、車から降りてつい丸腰のまま飛びこんでしまうことがよくある。
交通事故だって車幅分だけ車が動けば事故になるのだから、クマも1−2メートルの体長分だけで身を隠せるからだ。そんなクマの存在を忘れて周囲の警戒もおろそかにフィールドへ飛びこむ自分に、こういうときに事故は起きるのではないか、と思ってしまう。
また、撮影に夢中になっているときなんて背後のことはすっかり忘れてしまっているから、そこを突然ツキノワグマが襲ってきても、「熊避けスプレー」や「ナタ」で対応なんてできないと思う。
それを考えると、SIさんとまったく同じことがいつでも起こる可能性があるからだ。なので、今回のこの事故はやはりボク自身でもしっかり検証しておく必要があると思っている。

最愛の夫をツキノワグマに殺されて山間の地で一人寂しく暮らすSIさんの奥さんが、言った。
『午後になって山に行くものではないんだよ、ね。
 昔から山の民は、早朝よりでかけてなるべく早く仕事をして、夕方までには余裕をもって帰ってくるものだよ。
 お父さんは、ほんとうに忙しすぎた。そんな寸暇を惜しんで午後の山へ入らざるをえなかったんだ、ね。』
午後出かければ、時間に急かされてつい気持ちも焦ってしまうから、集中力にも欠け、事故を呼び込みやすいという理由である。

奥さんのこの何気ない言葉が、いまのボクを慎重にさせてくれている。
車社会を迎えてすべてが短時間でできてしまえるこの現代社会にあって、自然界の営みは昔からまったく変わることなく営々と行われてきていることだからである。そうした時代と人間の心の変化をいつも考えながら、ボクは自然界との融和をはかっている。
「死は次なる生命を支える」と、ボクは拙著『死』の写真集でも書いた。これは、ツキノワグマによる死亡事故をボク自身が真剣に考えることで、事故の予防につながると思っているからである。

写真:白沢山への入り口には、いまでもSIさんのために花がたむけられている。
04/15|ツキノワグマ日記コメント(2)トラックバック(0)TOP↑
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宮崎学プロフィル

宮崎 学

Author:宮崎 学
1949年、長野県生まれ。自然と人間をテーマに、社会的視点にたった「自然界の報道写真家」として活動中。
978年「ふくろう」で第1回絵本にっぽん大賞、1982年「鷲と鷹」で日本写真協会新人賞、1990年「フクロウ」で第9回土門拳賞、1995年「死」で日本写真協会年度賞、「アニマル黙示録」で講談社出版文化賞受賞。他写真集・著書多数。
最新刊「かわりゆく環境・日本生き物レポート」や「ツキノワグマ」「森の写真動物記」のシリーズが発刊中。

ホームページでは、中央アルプス山麓の仕事場をライブカメラにて24時間中継し、「家に居ながらにして自然が感じられる」と好評。

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